2014年8月5日火曜日

顔を見せない日本人



日本人でもフェイスブックを使う人が随分増えた。日本に帰ってきて4ヶ月。日本人のフェイスブック友達も着実に増えつつある。しかし、日本人のフェイスブックの使い方は私が今までいたアメリカやインドネシアの人たちとはちょっと違うようだと気づいた。一言で言えば、顔を表示したがらない人がとても多いのだ。

私のフェイスブック歴は長いほうだろう。20071月、アメリカに留学していた当時に友達に誘われやり始めた。フェイスブックは元々ハーバード大学の学生が交流を図るために始められ、そこから他の大学、高校へと広まっていったのだから、私はかなり震源地に近いところにいたのだ。その当時、まだ日本ではほとんど知られていなかったから、日本人としてはかなりのユーザー歴のはずだ。その後、インドネシアに5年いたが、このインドネシアもフェイスブック大国だった。フェイスブックのユーザー人数では世界第4位で、会う人はほぼ皆やっていた。

それに比べると、日本ではまだフェイスブックはそこまで一般的ではない。現に、未だに定期的に連絡をとっている中学からの友達3人は誰もやっていない。そして、頻繁にやっている人でも、あまり顔写真を出したがらない人が多い。私はいろいろな国籍の友人がいるが、外国人は自分や家族の写真を気軽にアップするのに、日本人の友人たちがアップするのは、料理や景色の写真、ニュースだったりする。正直言ってつまらない。子供の成長なんて、見るたびに変わって、面白いのに。

顔写真でさえ他の写真で代用するため、友達リクエストを送られても戸惑うことが多い。結婚して姓が変わっていれば全然わからないし、こちらからリクエストを送ろうとしても同姓同名がたくさんいて、写真がないので判別不可能。「日本人は表情がない、本心がわからない」とよく言われるが、そのフェイスブック版を見ているような気がする。実際に会っていなくても、元気でやっている写真を見ていれば、なんとなくつながっている気がする。しかし多くの日本人は写真がないため、どうしても心象が遠くなってしまうのだ。

一方で、「子供の写真はフェイスブックには載せない方がいい」という記事も目にした。写真とコメントから、子供の顔、名前、それに普段遊んでいる場所などがわかると、犯罪者に悪用される恐れがある、というものだ。確かにそうかもしれない。情報公開は気をつけたほうがいい。それでも、日本人の皆さんにはもっとフェイスブックで顔を見せて欲しいと思う私です。

2014年8月2日土曜日

女子校育ちの悲劇



作家の三浦しをんと中村うさぎの対談をまとめた「女子漂流」を読んだ。一般的な「女子」とはかなりずれている両者だが、二人とも女子校育ちらしい。なるほどな、と思った。一般的に女子校というと女の園、お嬢様学校というイメージがあるかもしれないが、女ばかりの中で女性としてのアイデンティティを保つことは難しい。女子が「女」であることを意識せずに育つ場所、それが女子校なのだ。

かく言う私も女子校育ち。だからこの二人の対談には、大いに共感するところがあった。女子校の女子はたくましい。世の中、普通男性がやるようなことも全て自分たちでやってきているものだから、男性に可愛くお願いするという感覚がない。重い荷物を運ぶのも、文化祭の大工仕事も体育大会の応援団長ももちろん皆女子。

こういう場所で育つと、社会に出て、「ごめん、これ持ってくれない?」などと男にお願いしている女を見ると蹴倒したくなる。さらには、ちょっとしたことで男性に「手伝ってあげるよ」などと言われると、可愛く感謝するどころか、「あんた私を馬鹿にしてんの?それぐらい自分でできます」と思ってしまうようになるのである。そして、恋愛テストをしてみれば、「あなたは男兄弟のいない家庭、または女子校でそだちましたね?」とそのものズバリの結果が出るような残念「女子」完成となる。女子校で絶対に育たないもの、それは女子力である。

女子校で育ち腐女子となった三浦しをん。私も腐女子とまではならなかったものの、思春期の6年間、少女漫画の二次元のキラキラした美男子にはまり、現実の男子には全く興味がなかった。たかが6年間の女子校生活だったが、思春期の重要な6年間をそうして過ごすと、やはりその後の矯正がなかなか難しい。そして未だに、女性としてのあり方をうるさく言われるような羽目になる。いや、これは単に性格の問題かもしれないが。

女子を一般的な「女性」の概念から漂流させてしまう場所、それが女子校かもしれない。