2013年12月27日金曜日

ここが変だよ日本人・年賀状の巻



何年かぶりに年末・年始を日本で過ごすことになり、久しぶりに年賀状なるものを書いている。欧米でもこの時期にはグリーティング・カードをやり取りするのが一般的だが、実はその週刊にも微妙な差がある。少し前、ニューヨークにある本部から、顧客に送るようのグリーティングカードの図案が送られてきた。カードとは言ってもEカード、つまりメールで送る簡単なものだ。メリークリスマスでもハッピーニューイヤーでもなく、“Season’s Greetings”。世界中にいる顧客の多様な文化を配慮して、文言やデザインからは宗教・文化的な色を可能な限り取り除いた、シンプルなものにしたのだろう。

これを各自が担当している顧客に送るように言われ、そのやり方が問題になった。まず、インドネシアでは、こうした、「季節のお便り」という概念がない。そして、日本のことを聞かれ、私は年賀状文化を説明した。日本特有の、クリスマスではなく、新年を祝う葉書のやりとり。海外では葉書というと旅先からの絵葉書が一般的で、通常のやりとりに葉書を使うことは珍しい。そして、私は、日本特有の習慣として、年賀状は決して年内にやり取りしてはいけないこと、新年の挨拶なのだから、基本的に元日に届けなくてはいけないことを説明した。

意外と思われるかもしれないが、欧米では年内でも、Happy New Yearの挨拶が有効だ。元日に会えないのならば、年の瀬に別れる際、Happy New Year!という。あけましておめでとうとよいお年を、という両方の意味に使える便利な言葉なのだ。

「日本の年賀状はね、絶対に年内に届けてはいけないものなの。新年早々、特に元旦についてこそ意味があるんだから。これが、少しでも遅いと、また失礼になったりするんだよ。」
そこで、私のインドネシアの同僚。「でも送るほうにはそんな正確に配達日なんて調節できないよ。」
「だから日本では、葉書にあらかじめマークをつけておくと、新年の挨拶用ってことで、郵便局が11日までのけといてくれるの。それで、新年が明けたらいっせいに配ってくれるんだよ。」
「じゃあ、新年は郵便局は大変じゃない!」
「そう、だから年末・年始は郵便局はたくさんのアルバイトを雇うの。まさに季節労働だね。」
 ここでインドネシア人大爆笑。この日本人の習慣はよほど奇妙なものに思えるらしい。時間を気にしない彼らにとってここまで時間を気にし、時間に正確な配達を実現させるシステムをわざわざ作り上げたことは、一種のジョークとしか思えないのだろう。「何でそんなことまでわざわざするの?」という感じなのだろうか。

日本人の時間厳守は世界でも有名だが、確かにそれは色んなところに現れている。クリスマスの飾りつけは、25日を過ぎれば跡形もなく消え去ってしまう。本場の欧米では、正月過ぎまであるのが普通だ。お雛様だって、節句を過ぎてもまだ飾っているのは縁起が悪いとされ、さっさと片付けてしまう。

交通機関が時間どおりに動いているのについては日本は間違いなく世界一だろう。以前、国内線を飛んだときに、搭乗の遅れ5分をわざわざ表示、およびアナウンスするのに感動した。搭乗ははじめから終わりまで15分はかかるし、場合によっては伸びることもある。5分の遅れなんてほとんど影響はないし、海外では20分遅れてやっとアナウンスがある、というところもざらだ。

日本ほど交通機関が時間通りに動いてくれるところはないので、それについては日本万歳、と賞賛したくなるが、それも時には行き過ぎのような感もある。電車の運転士には時間厳守についての厳しい罰則があるらしい。だいぶ前、未曾有の惨事をもたらした電車の脱線事故で、原因を追究してみれば、運転士に対する時間厳守の厳しいノルマが浮き彫りになったことがあった。たかが1,2分の遅れに対する過剰な焦り。まさに日本的な事故だった。海外でたかが1,2分の遅れを、誰が気にするというのか。まさに過ぎたるは猶及ばざるが如し、だなあと思う。

2013年12月19日木曜日

食物アレルギー人間の本音




突然だが、私は小麦アレルギーだ。食物アレルギーと言えば子供に多く、アレルギーをネットで検索してみればアレルギーの子供のために頑張るお母さん方の料理レシピやブログ日記などあふれている。しかし、アレルギーの本人が本音を語ったものは意外と少ないような気がするので、その本音を書いてみることにする。アレルギーの人間は色々なところで気を遣われるけれど、時々その気の遣いかたがずれているというか、ありがた迷惑に思うこともあるので。実際に迷惑をかけている立場なのはわかっているけれど。

私の場合、小さいときからのものではなく、数年前、大人になってから発症した。以来、パン、ケーキ、パスタ、ピザをはじめ、色々なものが食べられなくて不自由している。しかも、前はちょっと痒くなる程度だったのだが、気がつけばどんどん敏感になっているらしい。ちょっと前までは「そこまで敏感じゃないから、少しくらい入っていても大丈夫、そんなに神経質にならなくてもいいよ」と言っていたのだが、最近ではかなり神経質にしなくてはいけなくなった。

日本でも随分アレルギーの認知度が深まっている。私が今いるインドネシアや出張でよく行く中国で小麦アレルギーなどと言えば、「何それ、小麦食べられないの?何で?変なの。」という反応が返ってくることもしばしばだが、さすがに日本ではそんなことはなくなった。レストランでも表示ができたりして、とてもありがたい。

この間出張で行ったオーストラリアもアレルギー先進国だった。レストランのメニューには、グルテンフリーのGマークが自主的に表示されているところも多く、理解が行き届いていた。しかし行き届きすぎて、私はジレンマに陥った。とあるレストランでのことである。

前菜に運ばれてきたパンを理由を言って断ると、別のパンが運ばれてきた。びっくりしていると、「グルテンフリーのパンだよ」と、店員さんがウィンク。一瞬感動したが、同時に心の中で叫んでいた。「余計なことしなくていいのに!!!」

そのパンが本当にグルテンフリーかどうか、見かけで判断するのは不可能だ。そして、わざわざもって来てくれたパンに手をつけないと、まるで私が店を信用していないかのように思われる。気を遣わせておいて、相手を信用せず、その気遣いを無駄にするというのはあまりにも無礼な話だ。でももし、万が一このパンがグルテンフリーでなかった場合、あるいは何かの手違いで少量でも小麦粉が混ざっていた場合は大変なことになりかねない。明日から仕事だ。ここで面倒なことにはなりたくない。さて、どうしたものか。

礼儀か安全かのジレンマに陥り、ロシアンルーレットを回すような気持ちでしばらく真剣にパンとにらめっこしていた私。となりのテーブルに座っていた老夫婦に「パンがめずらしいのかい?」と聞かれてしまった。結局、パンは小さく切って紙ナプキンに包み、店員に見つからないよう、持って帰った。薬が手元にあることを確認してから一口食べて様子を見、30分後にまた一口食べ、さらに十数分後反応がないのを見て、全部いただいた。何のことはない、正真正銘安全なグルテンフリーパンだった。疑ってすみません。

しかし私が慎重なのにもれっきとした理由がある。以前、友人がグルテンフリーのケーキを買ってきてくれたことがあった。友人は私が不安がらないように、グルテンフリーとして売られているところの写真と、グルテンフリーと書かれたレシートをわざわざ見せてくれた。わざわざ私のために買ってくれたケーキ。私は喜んで食べて・・・そして大変なことになった。そのグルテンフリーケーキを売った店のその後の弁明によると、店員が普通のケーキと同じナイフを使って切ったのではないか(つまり普通のケーキがわずかに混入してしまった)ということだったが、反応のひどさからして、私は店員が普通のケーキととり間違えた(つまり私が食べたものは100%普通のケーキだった)ものだと思っている。そこから得た私の教訓。よくわからないものは口にするな、怪しきは疑うべし。

もちろん、グルテンフリーのケーキだってパンだって、パッケージにそう書かれていて、密封されたのであれば、私も安心して食べる。しかし、密封されていないのはどうも不安だ。見た目からはそうとわからないのは本当に怖い。おわかりになるだろうか、厚意・親切100%で出された、見た目そうとはわからないアレルギー除去食をロシアンルーレットを回すような気持ちで食べなくてはいけないアレルギー人間の気持ちが。気を遣ってくれるのは、とてもありがたい。でも、どうせ気を遣ってくれるのなら、周りとは違っても、安全が目に見えるものを用意してくれたほうがありがたい。

アレルギーということで、色々なところで人に気を遣わせてしまっているのはこちらも申し訳ないと思う。何か食べ物を勧められても、アレルギーだと断る。そうすると、勧めたほうにも申し訳ない気持ちを味わわせてしまう。特に相手が以前からアレルギーのことを知っていて、つい忘れてしまった場合、忘れていたことにちょっとした罪悪感さえ感じてしまいかねない。だから、「ご迷惑をかけてすみません」ということもある。しかし、もしあなたがこの言葉を家族や友人のために言っているとしたら、絶対にやめたほうがいい。この言葉は本人だから言えるものだ。どんなに家族や友人の痛みを自分のものと感じていても、だ。

あなたがアレルギーの友人や家族を気を遣ってくれた人に「ご迷惑をかけてすみません」「ご迷惑をおかけします」といったとしよう。それがアレルギー患者本人には、どう聞こえるか。これはきっと言われた本人にしかわかるまい。「あなたは人様に迷惑をかけているのよ」「あなたはいるだけで迷惑なの」と言われているように聞こえるのである。もしアレルギーの子供がこんな言葉を毎日聞いていたら、自分はいるだけで迷惑なんだ、思いかねない。私は大人になってからアレルギーになったが、この言葉を聞くと、「悪かったね、そんなに迷惑なら別に一緒に食事してくれなくていいよ。自分で勝手に好きなもの食べるから」と思う。私は大人なんだから、自分で食事の世話ぐらいできる。そうすれば、誰にも迷惑はかけない。しかし、それができない子供は、この言葉によって引け目を感じてしまうかもしれない。

感謝するのなら、「すみません」ではなく、「お気遣いありがとうございます」のほうがずっといい。本人だって好きでアレルギーなんてやっているんじゃない。何も悪いことはしていないのだ。謝るほうがおかしい。世の中目が不自由な人も、足の不自由な人もいる。小さな子供を抱えているお母さんだって、周りに気を遣わせている。でも、「すみません」はおかしい。みんな、持ちつ持たれつなのだから、迷惑をかけて「すみません」ではなく、お気遣い「ありがとうございます」と言いたいものだ。

全く気を遣わない、という手もある。「悪いけどこちらでは特別な対応はできない。自分で食料は確保してくれ」と言われたこともある。状況によっては大変だっただろうが、前もって言ってくれれば、あとは自己責任だ。突き放されるのは多少悲しいが、変な気を遣わせない分気楽でもある。むしろ、自分が他の人間とは違うことはわかっているのだから、色々なところでちょっとした問題に直面するような覚悟は、アレルギー人間にとっては当たり前のことだろう。

一番困るのが、アレルギーなんて大したことないと勝手に考えて適当に対処することだ。「ちょっとぐらい入っているかもしれないけど、大丈夫よね?」とか、食事の準備を整えられた後で言われましても。

一方で、気の遣いすぎも結構重荷だ。他の人とはあからさまに違う特別食なんて出されたら、こちらが恐縮してしまう。飛行機の機内食では、アレルギー除去食やベジタリアン食などは他の人に配る前に、まず真っ先に出てくるが、あれが苦手なのは私だけだろうか。もちろん、すごくありがたいし、注文をつけられる立場ではないのは重々わかっているのだけれど。

大げさに気を遣うのではなく、気を遣ったことすらわからなせないぐらいの、やさしい気遣いが、結局一番うれしい。アレルギーがあっても食べられるようなものがあるレストランを何気なく選ぶとか、そんな気遣い。それに気付いたとき、そのやさしさが一番心に沁みる。あとは、アレルギー患者が出されたものを拒否した時または残した時、お願いだから気を悪くしないでほしい。食事を用意する側の対応を疑っているとか、不始末を責めているようにも感じるかもしれないが、自分の安全に代えられるものはないのだから、こちらにとっても仕方ないことをどうかわかってほしい。

2013年12月18日水曜日

お気に入りの場所:マングローブの森


今日はバリの、私のちょっとお気に入りの場所をご紹介。といっても、そんなにしょっちゅう行くこともないんだけど。クタにある、マングローブの森。

空港やバリきっての繁華街のクタからもほど近いのに、あまり知られていない穴場。クタとは言っても、バイパス沿いの、ちょっとサヌールに向かったところにひっそりと入り口があります。人ごみを離れて、ちょっとゆっくりしたいときにお勧め。

マングローブの森をくぐって続く木道。こんな雰囲気たっぷりのトンネルのような場所もあります!



ただ、マングローブの根に引っかかっているごみが残念。潮の状態によっては、マングローブの根にわんさかついたごみが丸見えで興ざめになる恐れあり。



ここ、もともとは日本のJICA(国際協力機構)が国際協力の一環で整備したもの。マングローブの保護のために、ここに情報センターを作って、インドネシア各地のマングローブ保護活動の拠点にしていたみたい。今でも、ところどころにその名残が。

バリの観光スポットに飽きたら、是非覗いてみてください。

2013年12月16日月曜日

こんな動物食べちゃうの?



先日、オーストラリア出張にかこつけて週末にメルボルンを観光していた時のこと。ふと通りかかったレストランの店先のメニューに「炭焼きカンガルー」。え?カンガルー食べちゃうの?カンガルーって食べていいものなの?堂々と書かれているから問題はないのだろうが、いけないものを目にしてしまったように、そそくさと立ち去った。ブログ用に写真を撮るのは忘れずに。





早速仕事で会ったときにオーストラリアの同僚に聞いてみた。「ねえ、カンガルーって食べていいものなの?」オーストラリア人、大笑い。

「そりゃあ、もう。カンガルーってすごい健康食品なのよ。脂肪が少ないのにすごく柔らかくておいしいの。でも、脂肪が少ないから、すぐに料理しなきゃだめよ。すぐに乾いちゃうし、焼くときは表6分、裏4分、それ以上焼くと固くなって食べられないから。」

何でも、増えすぎた野生のカンガルーを駆除することもあるけれど、一般的に出回っているのはカンガルー牧場で繁殖させたのらしい。カンガルー牧場、あまり想像がつかない。
「空港ではカンガルージャーキーきっと売ってるよ。お土産に買っていったら?」と勧められた。そんな時間はなかったが。

じゃあ、コアラも食べていいの?と聞いたら、「それはダメ!違法です!」とのこと。でも、コアラも増えすぎて困っているって聞いたんだけど。
「それでもダメなの。コアラは可愛いし、国の象徴みたいなものだから。」カンガルーだって可愛いし、オーストラリアの象徴みたいな動物だと思うんだけどなあ。

さて、そこで思い出したのは、先月行った中国出張。行き先の1つは広西省だった。夕食で行ったレストランの店先には、動物たちの檻。見たこともないような動物もいた。少なくとも、台所に馴染み深い、鶏・鴨・豚・牛ではない動物だ。そして、その中には「野生」と書かれたものも少なからずある。おいおいおい、まさか保護動物なんて取って食べてはしないだろうね?




その横には、「展示用です。食用ではありません。」と書かれた檻に大きなカメが。食用じゃないのは良かったけど、どうも、ワシントン条約で取引が禁止されている種のウミカメに似ている。捕まえるのもいけないんじゃなかったっけ?

そして夕食。まさか変なものは出さないだろうと思いきや、出た。蛇。既に以前の出張の際、食用蛙は経験済みだ。そして、なんだかわからないが多分鳥類と思われるもの。何かと聞いてもわからないという答え。怪しげなものは食べたくないと思いつつ、勧めるものを断るのも悪いので、とりあえず、一口は食べた。

「ねえ、あれ、食べた?」夕食後、中国の仕事仲間が聞いてきた。「あれ、もしかして保護種の鳥だったんじゃないかって思うんだけど。」
「何でそれを早く言ってくれないの!何度も聞いたのに!」叫んでしまった。まがりなりにも、環境保護の仕事に身を置く立場である。
どうやら、食後、彼女はレストランに確認したらしい。「いや、保護種っていっても、保護段階は最低レベルで、狩猟に制限があるってだけで、禁止はされていないから違法かどうかはわからないけど・・・。」
でも、保護種の狩猟がおおっぴらにまかり通っている地域だ。やはり明らかな家畜以外の肉は口にするべきではなかった。

場所を変えて、この話を安徽省に行ってしたら、「本当、広東・広西の人間って何でも食べるからね。でも、ここではそんなことないから安心して」と言われた。
「へえ、海外では中国人って何でも食べるって言われてるけど、実は広東・広西だけなの?」と聞くと、何を言うか、広東・広西の人間と一緒にするなと言わんばかりの反応。

「ねえ、海外では本当に中国人は何でも食べるなんて言われてるの?恥ずかしい。ほんの一部の地域だけなのに。」自国の海外での評判なんて、本当にわからないものなんだな、と思った。特に情報が制限されているこの国では。

でも、何でも食べるのは広東・広西だけといいつつ、犬の肉は中国全土で食べますよね?そこにあった山盛りのスズメバチフライは見間違いでしょうか?お願いだから私は勘弁させてね。

話は広西に戻るが、これ、うちの街の名産なの、と言われてもらった「螺蛳粉」と書かれたインスタントの麺。螺蛳はカタツムリのことだ。「」は、この場合は麺の意味。カタツムリの麺ですか?


とりあえず愛想よくありがとうともらっておいて、その後の会話。
「ねえ、私カタツムリなんて食べたくないんだけど。」
「え?何で?カタツムリおいしいのに。」そう答えた彼女は北京在住だ。何でも食べるはずの華南出身ではない。
「あ、でも大丈夫!麺自体は米粉100%。カタツムリっていうのは、名前だけだよ。」と言っていたが、実はそうでもなかった。確かに麺の原材料は米粉100%なのだが、インスタントヌードルの薬味、具にはしっかりカタツムリ、と書かれていた。

「じゃあ麺だけ食べればいいんだよ。適当に自分で料理して。」と言われ、そのとおりにしようと思っていたのだが、好奇心で、カタツムリならフランス人も食べるし、と正当化(?)し、具のカタツムリのほうも食べてみた。もちろん、インスタントヌードルの具は細かく切られているので、原型はわからない。しかし薬味が辛すぎて、カタツムリの味はわからないままだった。ちょっと残念。

世界にはまだまだ珍味がたくさんある。特別グルメでも何でもないが、世界を飛び回る限り、望む・望まないに関わらず、また新たな味に逢うことは間違いない。