2015年2月13日金曜日

本屋と図書館の魔力



本屋と図書館には全く反対の魔力がある、と私は思う。即ち、本屋は「本を読みたくさせる魔力」であり、図書館は、「本を読む気を失わせる魔力」である。

勿論、本屋や図書館にもよる。しかし、本屋では、あの手この手の売り文句、カラフルな帯に書店独自の批評、どれも読書欲をそそる。一つ一つの本が個性を主張し、張り合っている。普段ならチェックするネットでのレビューも調べずについ衝動買いしてしまった本も1冊や2冊ではない。なぜか本屋では本が魅力的に見えるのだ。考えてみれば当たり前だ。本屋は本を売ることでお金を稼いでいるのだから。

しかし、どうせ同じ本ならタダで読みたい。そう思って図書館で借りようとすると不思議な事態が起こる。あれほど読みたいと思っていた本が、図書館では全く魅力的に見えないのだ。実際、透明な図書館の保護カバーをかぶり、バーコードが付された本はベストセラーのミステリーも哲学書も技術系の専門書も皆同じモノトーンの活字と化す。どれもこれも、ちっとも面白く見えないのだ。何か読もうと思い図書館に行ったものの、すっかり読書欲を削がれて何も借りずに帰ってしまうのは私だけだろうか。よって、私は図書館では本は選ばないことにしている。

本は本屋、またはインターネットの書評を見て選び、図書館で予約する。図書館では借りるだけで、図書館にいる時間は極力短くする。お金をかけず、読書をする方法はこれしかない。

しかし、ふと思う。本を買いたくなる本屋の魔力と同じくらい強い、本を読みたくなくなる図書館の魔力。これもやはり人為的なものではないだろうか。公のお金で成り立つ図書館では、利用者が多くなっても何一ついいことはないだろう。職員が忙しくなるだけで、収益が上がるわけではない。むしろ整理のための費用が嵩んでしまう。だから図書館は、わざと本をつまらなく見えるようにしている、とか。いやいや、いくらなんでもこれは意地悪過ぎるな見方だろう。真面目に働いていらっしゃる図書館職員に申し訳ない。

それにしても、図書館で機械的に並べられた本たちが人間と重なって見える。個性を無視され失くし、ジャンル別、著者のあいうえお順などという社会的ルールで一律に区分けされた本たち。個性を失くした本たちは整然とした社会秩序の中で、まるで死んでいるようだ。あるいは、図書館が本というその時代時代の遺物を保存するところなら、本は図書館という場所で時代の化石となるのかもしれない。

2015年2月8日日曜日

チグリスとユーフラテス(新井素子)



何のリサーチもせず、図書館でふと手にとったこの本。ずっと昔、まだ小学生だか中学生の時に、この作者で好きだった本があることを思い出し、読んでみた。タイトルから連想される内容とは正反対の、日本SF大賞受賞作という売り文句に期待しながら。

面白かった。文章は軽いライトノベル風で、だから。そして。いつの間にか。などやたらと区切る文章には、青春時代に読んだティーンズハートを思い出した。正直言って、この文章にイライラする人も多いだろう。しかし、なかなかどうして内容は濃い。SFで深刻な雰囲気はもたせないまま、なぜ人は生きるのか、そんな普遍的な問題が描かれている。

舞台は人類が移住した惑星ナイン。数十人の移民から、人工子宮と凍結遺伝子を使い、人口爆発を迎えるが、ある時から急速に人々の生殖能力が低下し、移民から400年の後、ついに最後の子供、ルナが残る。一人となったルナは将来医学が発達した時に治療できることに希望を託し、コールド・スリープについた人々を一人ずつ起こしてゆく。惑星の違う時代に生きた人々の口から語られるその人生、価値観。そしてついには移住を実現した移民船キャプテンの妻で惑星ナインの母と崇められるレイディ・アカリの眠りまでも覚ます。

人生の理由、意義。誰もがそれを求め、信じ生きている。しかし、最後の子供、ルナにはそんなものははじめからなく、自分の存在が意味するのは虚しさだけ。だからコールド・スリープから覚めた人々の人生も自分の存在を以て否定してゆく。惑星ナインの全ては無駄だったのだと。しかし、移民事業の生みの親、アカリは怯まない。「人生は楽しんだもの勝ち」という強さ。そして、発想の転換により、最後を最初に変えようとする。そして、自然の素晴らしさ、他の生物とのふれあいをルナに教えてゆく。ルナは初めて「幸せ」を教わるのだ。

しかし、私は思う。ルナにとって、惑星の母、アカリからの何よりのプレゼントは、「あんたが最後の子供なら・・・あたしの人生、勝ちだったよ。ナイン移民は勝ちだったよ。あんたは・・・あんたは・・・凄い子供だ。あんたは、すっごい、最後の子供だ・・・」という言葉だったのではないだろうか。自分の存在を呪い、持て余していた孤独な老いた子供にとって、これほどの救いの言葉はないだろう。

少々文章に癖があるので万人向けとは言い難いが、軽くて重い、味のある佳作だと思う。

2015年2月1日日曜日

イスラム国と日本の共通点



日本人が2人、イスラム国によって人質となり、殺害された。人の命や人々の生活を踏みにじり、テロ行為を繰り返すイスラム国。その姿はさながら悪の化身のようだ。

しかし一方で考える。近い歴史の中で似たようなことはなかったかと。死を恐れず、自らの信じる神の下、周辺国を侵略し急速に勢力を拡大した、そんな国がなかったかと。第二次大戦中の日本にどこか似ている、そう感じるのは私だけだろうか。

もちろん、日本人としてはこの例えは面白くないものに違いない。あんな狂信的な宗教集団と一緒にするなと言う人も多いだろう。もちろん、違いはある。イスラム国と違い、日本は元から長い伝統をもつ国家だったし、やったことも勿論一緒ではない。しかし、私が言うのはあくまで外から見た話だ。

日本の天皇崇拝も、外から見れば狂信的としか思えなかっただろう。自ら命を捨てるように戦う姿も人間とは思えなかったに違いない。そして、日本側にどれだけ言い分があるにせよ、偶然が招いた歴史だったにせよ、外から見ればやはり真珠湾攻撃は宣戦布告前に行われた、テロ攻撃だった。

日本は外国人を人質に取り、要求が聞き入れられなければ殺すなどということはしていない。しかし、時代もメディアも違うのだ。日本は代わりに、多くの捕虜に強制労働を課し、虐待と非難される待遇で死なせた。イスラム国ではイスラム原理主義の下、女性が売買され、ひどい扱いを受けているという。日本もアジア各国で現地女性を従軍慰安婦とし、その暗い歴史は70年経った今も未だに清算されていない。

イスラム国は悪鬼の集団なのだろうか。人間の血が通わない悪の権化なのだろうか。イスラム国の戦士たちは、本当に自分の命をも厭わない殺戮マシーンなのか。今から70余年前は日本がそう思われていたことだろう。

だから、信じたい。
国のため死ぬのは名誉、本望という建前の下、決死で戦うイスラム国の戦士の心にも、愛する人や家族がいるのだと。聖戦に戦士を送り出す家族には計り知れない悲しみがあるのだと。そして、イスラム国という組織ができ、急速に発達した背景には、日本が戦争に踏み出さざるを得なかったのと同様の悲しい理由があるのだと。

戦後70年。70年の後には、イスラム国のある辺りも平和を謳歌しているだろうか。今の戦争の話が、その時代を知る古老によりと昔話のように語り継がれているだろうか。そんな時代の来ることを祈りたい。