2014年11月13日木曜日

天地明察(冲方丁)



遅ればせながら、本屋大賞を受賞し、映画化もされたという(読み始めてから知ったが)この作品を読んでみた。普段、空気のように当たり前に使っている暦。それに関する江戸時代のプロジェクトXだ。

江戸将軍家に碁で仕える家系に生まれた、安井算哲(渋川春海)。型にはまった見掛け倒しの勝負に終始するしかないその身分に飽き飽きし、算術と天文観測に喜びを見出していた。本人の知らぬ間にその才能を見出され、幕府の要人に会い、800年続いた伝統の暦に挑戦するという使命を負う。それは、天の法を地上での観測と算術によって解き明かすという途方もない挑戦だった。

普段私たちが当たり前としている全てのものに、それを生み出した人々の努力と執念がある。それに改めて気づかせてくれる作品だった。読みながら歴史も勉強できて、読んだら少し賢くなったように感じるお得感がいい。

この作者の本は初めてだったが、この本の扱うテーマに反し、作風は軽めだと感じた。文章、ストーリーの運び、派手で個性的なキャラクター設定などはラノベ的なものを感じたが、実際、ラノベリストらしい。

例えば、登場人物も錚々たる顔ぶれだ。江戸幕府の礎を築いた保科正之に水戸黄門のモデル、水戸光圀。江戸時代の天才数学者・関孝和の登場のしかたもなかなかにくい。圧倒的な存在感で名前ははじめから登場し、主人公に影響を与えるが、実際に姿を現すのはかなり終わりの方だ。思わせぶりな登場のさせ方、しかし作品を通して感じるそのミステリアスな影はいかにも現代的だ。

しかし、一方で、もう少し文学的に深く掘り下げられなかったのか、少し残念だ。改暦の命が下るまでの長い青春時代のくだりに比べて、改暦の事業の苦悩があまりにもあっさりと書かれているような気がしてならない。自由に想像の手を加えられる無名の青春時代と比べ、事業そのものの描写は歴史的な事実を曲げられず、しかも資料が少ないために書けなかったのだろうか。

掘り下げ方が少々残念ではあるが、十分楽しめたし、勉強にもなる良書だった。

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2014年11月10日月曜日

舟を編む(三浦しをん)



思わせぶりなタイトルに、単行本にしてはやたらと地味な装幀。2012年度の本屋大賞をとっただけに、期待は大きかった。しかし、予想外に地味な話だった。もちろん、三浦しをんのコメディの才能をうかがわせる、おかしみのある場面、文章は随所にあった。しかし、内容は至って地味な何十年もにわたる辞書編纂作業。三浦しをんだけあって、漫画のように強烈でおかしなキャラクターが揃っているのだが、特別ハチャメチャな展開にはならない。安定した、ある意味予想通りの展開なのだ。

主となる編集者は辞書に一生をかけ、辞書によって生かされ、それぞれに執念を燃やして本当に実現するかもわからない辞書のために果てしない編纂作業を続ける。そのなかで、出会いがあり、繰り広げられる人生がある。そして、宣伝で応援する者、表紙の装幀に携わる者、特殊な紙の開発に携わる者、すべてのピースがはまってようやく完成する。

ほとんどエンターテインメント性のない、真面目なストーリーがこれだけ面白く書けるのは、やはり三浦しをんの力量によるものだろう。簡単な言葉ひとつの定義に難しい言葉を並べ立てて討論している場面の面白いことといったらない。コンピューターを使わず、ひたすら用例採集カードなどを使っていて、「これ、いつの時代?」と突っ込みたくなるのだが、昔の辞書の編纂作業は確かにひとつひとつ、手作業だったのだ。

最後、辞書「大渡海」は完成する。立ち上げから関わった老学者は完成を待たず世を去るのも、ありきたりといえばありきたり、王道といえば王道の展開だ。しかし、辞書に限らず、世の中の大業というのは、皆、このような地道で長い労苦の結晶なのだろう。今の時代、簡単にインターネットで無料の辞書が利用できる時代になり、もう何年実物の辞書をめくっていないことだろう。しかし、この本を読んで、改めて前人の大業、それまでにかかった果てしない作業に思いを馳せた。

読み終わって気づいたのだが、やたらに地味なこの本の装幀は、本に出てくる辞書「大渡海」の装幀そのものだった。おまけに船の帆に、この本の中だけの架空の出版社、玄武書房の「玄」まで見える。なかなか粋ではないか。

2014年10月22日水曜日

あの日にドライブ(荻原浩)



主人公は退職に追い込まれた元・エリート銀行員。ちゃんとした仕事が見つかるまでのつなぎで始めたはずのタクシー業もさっぱり。仕事中心だった今までのツケで家でも居場所がない。そんなトホホ中年男はまだ人生が希望溢れていた学生時代の「あの日」へと考えを巡らす。

あの時、ああしていれば。そんな思いと偶然が勝負のタクシー運転手稼業が重なり、ストーリーが進んでゆく。人生は運。全ては偶然。そんな虚しさからか、冴えない主人公の妄想は果てしなく広がっていく。昔憧れながら、お金と世間体を気にして就かなかった仕事、昔の彼女と築いた理想的な家庭など、完全な現実逃避なのだが、本人は気づいていない。「そんな都合のいいことあるわけないじゃん」と読者が突っ込みたくなる程に。

しかし、しばらくタクシー業を続けていくうちにわかるのだ。偶然勝負に見えるタクシー稼業も、実は勝ち組になるには綿密な下調べと計画が必要だということを。そして、昔の彼女や昔憧れていた出版社の現状に幻滅し、ようやく自分の人生がまともに見えるようになる。偶然だけど、それだけではない人生。自分が選んできた結果である今の人生に、主人公は最後ようやく向き合う気になるのだ。そこで見えてくる妻の美点、うるさい子供たちの可愛さ。希望が見える温かい終わり方にほっとした。

作品の雰囲気としては、重松清の「流星ワゴン」を思い出した。リストラ男のトホホ生活の状況や希望を持たせるエンディングが似ているからだろう。読み物としては重松清の「流星ワゴン」のほうが先が読めないし、ドラマチックで面白いが、この荻原浩版リストラ中年男のトホホ物語もなかなか味があった。平凡だけど、あたたかい。そんな作品が好きな方は、是非。