2013年5月24日金曜日

インドネシア語とマレー語



現在、マレーシアに来ているが、基本的に言語で困ることはない。イギリスの植民地だっただけあって、英語が話せる人が多いし、マレー語とインドネシア語はよく似ているので、大体理解できる。

もともとインドネシア語は、ある意味人工的のような側面がある。インドネシアは何千の島からなる多民族国家で、オランダの植民地だったという他は歴史的・文化的にほとんど共通点はない。実際、国内に無数の言語が存在し、国としての統率をとるのにコミュニケーションだけでもかなり困難だ。そのため、建国の際、国内の言語を統一しようと、簡単な言語を選び、発展させた。それが現在のインドネシア語である。多数派で独立運動を率いたジャワ人のジャワ語を選ばなかったのはインドネシア独立指導者たちの何より賢明なところだろう。多数派が小数派に言語を押し付け、支配するのではなく、新しい国として、皆が平等に同じ言語を学ぶことした。ある意味、インドネシア語は、インドネシア人誰もがマスターしなくてはいけない外国語として始まったわけだ。インドネシア語はマレー語を下地としているので、この2つの言語の間で大まかなコミュニケーションは可能だ。インドネシア人がマレー語のドラマを見ると、70%ぐらい言っていることがわかるという。

インドネシア語とマレー語の大きな違いとしては、マレーシアはイギリスの植民地、インドネシアはオランダの植民地だったため、それが多くの単語に反映されている。アルファベットはマレーシアでは英語読み(エー、ビー、シー)、インドネシアではオランダ語読み(アー、ベー、セー)となる。空港をインドネシア語ではBandara(バンダラ)と言うが、マレーシアでは通じなかった。英語のまま、Airportでいいらしい。アイスティーを注文するのにインドネシア語のEs Teh(エス・テー)と言ったら通じなかった。アイスは英語のままIceだそうだ。何より一番戸惑ったのは、Kita(キタ)という単語だ。インドネシアでは、話相手を含めての私たち、と言う意味で使われる。しかし、”Kita dari mana?”と聞かれたときは戸惑った。直訳すれば、「私たちどこから来たの?」というおかしな質問になる。マレーシア、特にサバ州では、あなたと言う意味で使われることもあるらしい。その他、オフィス、トイレ、車、ビルなど、いろいろな単語が違う。マレーシアには何度も来ているので心得ているつもりだったが、それでも戸惑ってしまう。

今週、仕事でマレーシアの山間部に住む村人へのインタビューがあったのだが、この違いが災いしてかなり散々な結果となった。キーワードを押さえていなかったため、かなりの内容が理解できなかったのだ。途中、よく登場する単語の意味を確認し、あまりにも基本的な単語だったためにがっくり来ることも多かった。例えば、Bilaという語はインドネシアでは「もし」と言う仮定の意味で使われるが、マレーシアではいつ、~の時、という意味だ。Kerajaanという言葉はインドネシアでは聞いたことがなかったが、マレーシアでは政府という意味。境界という語にはインドネシアではBatasanがよく使われるが、これは理解してもらえなかった。マレー語ではSempadanというらしい。伐採はインドネシアではPenebanganをよく使うが、マレー語ではPembalakanを使う。私のインタビューは森林管理についてだったため、これらの言葉はどれも質問の中心となるキーワードだった。インタビュー後、私は沈没していた。

インドネシア語とマレー語の意味の違いを極端な例でみてみよう。”Bila turun dari kereta, kita ke kamar kecil” という文は、インドネシア人だったら、「もし電車から降りたら、私たちはトイレに行こう」と、マレーシア人だったら「車から降りた時には、君は小さな部屋に行ってね」と理解するだろう。適当に作った文なので文法的に正しいかはわからないが、とにかく、意味が全く違ってしまう。誤解を生む場合もあるだろうが、理解不能という場合のほうが多い気がする。

インドネシア語とマレーシア語、似ているからといって侮るなかれ。ある意味、日本語と中国語における漢字と似ている。共通なところが多いからこそ、ところどころの違いで、大きな誤解が生じやすい。なんと紛らわしいことだろう。

マレーシアのボルネオとインドネシアのカリマンタン



現在、仕事でマレーシア、ボルネオ島の北西、コタ・キナバルに来ている。ちなみに、ボルネオ島は東側と南側はインドネシア領になっており、インドネシアではカリマンタン島と呼ばれている。1つだけど2つの名前をもつ島なのだ。今私がマレーシア側にいるため、ここではボルネオと呼ぶことにしよう。

地続きで、マレーシアとインドネシアという2つの国に分かれたのは歴史的にはごく最近だから、もともと、現在のマレーシア側とインドネシア側にそんなに違いはなかったはずだ。事実、先住民の文化は共通だし、国境の向こうに親戚をもつ先住民も少なくない。昔は山の向こうに嫁に行った、という感覚だったのだろう。しかし、植民地時代を経て、別の国に分断された現在ではその差ははっきりしている。まず、経済的には、マレーシア側(サバ、サラワク州)のほうが圧倒的に近代化されている。マレーシアの経済成長をそのまま反映した形だ。マレーシア側では道路も、街中はもちろん、かなり奥のほうまできれいに舗装されている。インドネシア側では市街地の道路さえ穴ぼこだらけだ。これは、この島に限ったことではない。ジャワやスマトラでも、かなりの密度で人が住んでいる地域でさえ、舗装されていないか、管理が悪く、穴ぼこだらけのひどい状態になっている道が多い。

ボルネオは東南アジアでは熱帯雨林の原生林が生い茂る島として、さかんに宣伝されている。私が現在いるコタ・キナバルも、エコツーリズムの中心地となっており、パダス川のカヤッキング(筏下り)や世界有数のダイビングスポットへのダイビング・ツアーなど、数々のツアーでにぎわっている。そして、ここの何よりの目玉は、街の名前にもなっている、東南アジアの最高峰、キナバル山だ。4000メートルを超える山で、2日かけて登るのだが、登山客用に道が整備され、山の上にホテルもあるため、初心者でも比較的簡単に登れるという。このホテル、かなりきれいに整備されているらしく、昔ながらの山小屋のようなものではない。予約がいつもいっぱいなので3ヶ月前には予約しないと登れないという繁盛ぶりだ。

実は、このキナバル山、私の憧れの山でもある。昔、小学校の担任にマレーシアでの登山の話を聞いてから、私もいつか登ってみたいと思っていた。しかし、登山は1人ではつまらない。他に登山者はたくさんいるし、ポーターもいるだろうから1人でも危険は少ないだろうが、やはりできれば気の合う友達と登りたいものだ。しかし一緒にこの4000メートル級の山を登ろうと言ってくれる酔狂な友人は見つからず、目下登山友達募集中だ。あまり年をとる前に実現したいものだ。

雄大な自然を売り物にエコツーリズムで繁盛するマレーシアとは反対に、同じ島でもインドネシア側でのエコツーリズムはあまり聞いたことがない。観光客用に設備が整えられていないし、宣伝もされていない。また、昔イギリスの植民地だったおかげで英語が達者なマレーシアに比べて、インドネシアでは英語が話せる人は少なく、観光業を支える人材の確保も難しいのかもしれない。

しかし、観光化がされておらず、一般人が訪ねるのはかなり難しいが、手つかずの雄大な自然、先住民の文化が残されているのはむしろインドネシアかもしれない。このボルネオ島サバ州で最も奥地にあるという村を訪ねたことがある。しかし、その村は、エコツーリズム推進プロジェクトで開発され、今では村でWiFiが使えるまでとなっている。各家庭にはテレビがあり、皆、当たり前のように携帯電話を持っている。むしろ、街に近い村のほうが開発から取り残されてしまった感じだ。しかも、村人はだいぶ昔に皆キリスト教徒になってしまったため、先住民が守ってきた伝統、文化の多くは既に失われてしまっている。先祖が守っていた森の中の聖地などは観光客に見せるために保存しているのみである。

一方、インドネシアの熱帯雨林の伐採地で出会った現地の人々は未だに独自の文化を持っていた。もちろん、彼らの生活もだいぶ現代化している。バイクを乗り回し、テレビなどに親しむところは同じだ。しかし、彼らが働く伐採キャンプには独特な木琴やギターのような楽器があった。私がそれに興味を示すと、全部自分たちで作ったのだと言い、楽器を手に合奏を始めてくれた。かなりの腕前だ。そして作業着のまま、その音楽に合わせて踊りだす人もいた。ランダムな踊りではなく、伝統的な振り付けの踊りである。そして、何度も海外に招かれて公演した事もあるのだと誇らしげに語るのだった。今ではアブラヤシのプランテーションによる開発などで森林も脅かされ、彼らの生活も変化を余儀なくされているが、それでもマレーシア側よりはまだ伝統的文化が残されているような気がする。

しかしグローバル化が進む現在、「手付かず」のものを求めるのは難しい。しかし、ボルネオの雄大な自然を手軽に楽しみたいのなら、マレーシアが断然お勧めだ。多少観光化され過ぎている感は否めないが、サバ州のコタ・キナバルやサラワク州のクチンは街自体楽しめるし、日帰りでいけるエコ・アトラクションが数多くある。しかし、もっとワイルドなものを期待するのなら、インドネシア側だろう。ただし、望むような旅を手配してくれるところはないので、何もかも自分でやることになりそうだが。


2013年5月16日木曜日

ダンス・ダンス・ダンス(村上春樹)



海外で「日本の小説が好き」という人がいると、それが意味する日本の作家は限られている。欧米では大体、村上春樹だ。ある意味、海外では現代日本作家の代表ともなっているかもしれない。

村上春樹の小説は何作か読んでいるが、いつもこの人の作品は抽象画のようだと思う。何が描かれているのだかわからないが、独自の世界がある。そして何故か惹きつけるものがある。しかし、意味はよくわからない。だから、この人の作品は好き嫌いがはっきり分かれる。残念ながら、私は後者のほうだ。「ねじまき鳥クロニクル」「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」など代表作を読んできたが、どれも面白く、読んでいて引き込まれる。しかし、最後まで読んでもしっくり来ない。だから何が言いたかったの、と思ってしまう。村上春樹の作品を読んだのは久しぶりだが、これもそんな本だった。

位置づけからすると、「羊をめぐる冒険」のその後の話ということになる。羊男も出てくるし、「羊をめぐる冒険」の中のエピソードがこちらにも登場する。しかし、私が「羊をめぐる冒険」を読んだのは10年以上前で、記憶もおぼろげだった。それでもストーリーをたどる分には支障はなかったが、それでも結局、何が言いたいのだかわからなかった。ミステリー、というにしては謎解き以外の部分が多すぎるし、結局主人公が自分を取り戻すための経過だったのかと思うが、それもしっくりこない。どっちつかずで、ユニークで魅力的な登場人物たちが話を楽しませてくれるのだが、だからどうなの、という感じもする。村上春樹には熱狂的ファンが多いが、ファンの方々は理解できるのだろうか。

抽象画は意味不明だから抽象画なのかもしれない。しかし、この作者ほど友人と意味を話し合ってみたくなる作品を書く作家もいないかもしれない。だって、もしかして自分だけわからないのかと思うと、くやしいから。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

2013年5月14日火曜日

ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー(山田詠美)



最近ニューヨークに行ったので、ニューヨークっぽいものを読んでみた。この割と薄い本の中には8編のアメリカの黒人たちを主人公とした短編恋愛小説が収録されている。それはバーの音楽、お酒、セックスに彩られ、ブラック・アメリカンな文化がほとばしっている。まさにこの文化に惹かれ、好んで黒人の中に身を置き、交わり、数年を過ごした作者しか描けないような生きたアメリカの黒人の恋模様がここにある。

どの話も性が濃密に描かれており、従来の日本文学にはないほどセクシーだ。性を切り離した愛はあり得ないし、愛は性の中で育まれるもの、というように。かなりどぎつい性の表現も、この中では、人間の愛の表現として当然のものと受け止められる。ある意味、愛と性が直結する恋愛模様は、とても人間らしい。そして、とてもあっけらかんとしていて、嫌らしさがないのだ。

むしろ、性がいやらしいものとなるのは、ケチな道徳などを持ち出したときなのかもしれない。本来、性は自然な愛の表現であり、喜びなのだ。そんなある意味原始的な彼らを、作者はこう評する。「自堕落でやさしくて感情を優先させる自意識の強過ぎる、そして愛に貪欲な彼らが大好きである」と。「私の心はいつだって黒人女(シスター)だよ。日本語をきれいに扱えるシスターは世の中で私だけなんだ。」という作者。確かに、魂まで黒人と同化していなければこんな話は書けないかもしれない。

しかし、この話は英語で読んだらさらによかったことだろうと思う。あちらこちらの文章で、「これ、英語を翻訳した?」と思わせるような、英語でのほうが自然だろうという表現が見受けられた。特に、登場人物の台詞は、黒人英語がそのまま聞こえるようで、作者も頭の中ではきっと英語で書いていたのだろう。しかし、日本ではない話なのだから、多少のぎこちなさは仕方ない。日本人のほとんどは縁のない黒人文化の魅力、そしてそこに生きている人々の生の恋愛模様を教えてくれただけでも感謝するべきなのだ。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

2013年5月12日日曜日

給食と日本文化の知られざる関係



先日、Facebookで、日本の小学校に子供を入学させたインドネシア人の書いた記事が評判を集めていた。どうやら参観日があったのか、日本の学校を見学した彼は、日本の初等教育にいたく感心していた。まず、参観日というもの自体目新しかったようだが、彼の目を捉えたのは、給食と掃除の様子だ。給食では児童が代わりばんこに配膳し、片付ける。そして、毎日教室の掃除は児童にやらせ、それが教育カリキュラムに組み込まれている。自分で用意し、自分で片付けるということを毎日やることで、自然とそうした習慣が身につくのだ。

日本では、レストランはともかく、大衆食堂やフードコートのようなところでは、食べ終わった後、自分のお膳を戻すのは当たり前だ。しかし、これは実は日本特有の文化だったりする。インドネシアを含め、海外、少なくともアジアの多くの国では決して自分で片付けない。掃除係が必ずいて、お膳を下げてくれるのが当たり前なのだ。以前、これを知らず、食べ終わったあとのトレイを持ってきょろきょろしていた私は、清掃の人から相当胡散臭い目で見られた。会社でも日本でなら自分の使ったものはある程度自分で片付けるのが常識だろう。しかし、インドネシアでは清掃係に丸投げだ。自分の使ったコーヒーカップだって、清掃係に洗わせるのがこちらの常識なのだ。

自分のものは自分で片付ける、日本の文化を美しいと思う。海外から日本に来た旅行者は、決まって日本の町並みの清潔さに驚くが、これはやはり自分のものは自分で片付ける文化なしではあり得ない。この文化を誇りに思いこそすれ、それがどこからやってきたものか思いもしなかったが、Facebookの記事を読んで、これは初等教育を通して培ったものなのだと思い至った。

給食は、日本ならではの制度だ。海外の多くの学校では、児童の昼食は家庭が用意するものだ。あるいは業者に全て委託しているところもある。もちろんこの場合、児童は配膳も片付けも何もしない。日本では児童の買い食いは悪とされているが、田舎の小さな小学校では児童が授業の合間に学校のすぐ近くの売店でちょっとしたおやつを買って食べるのも一般的だ。掃除も、アメリカなどでは全て清掃係を雇い、児童にやらせることはない。自然、自分が汚した結果を始末することもないので、児童は汚すという行為に関して無頓着になる。

海外に来て、「たつ鳥後を濁さず」という日本文化がいかに稀有なものであるかを見てきた。もちろんこれは古くからある概念ではあるだろうが、これが現代の日本人に体得され、社会の習慣とまでなっているのは、やはり小学校生活の影響が大きいだろう。初等教育侮るなかれ。学校は知識だけではなく、文化も育むところなのだと改めて思い知らされた。

とあるショッピングセンターのフードコート。
食べ終わった後のトレイは置き去りのまま。

にほんブログ村 海外生活ブログ バリ島情報へ
にほんブログ村