2013年9月5日木曜日

パプアニューギニア、ラバウルの戦争史跡



仕事でパプアニューギニアに行った。目的地は北東にあるニューブリテン島。首都ポートモレスビーから国内線を経て、ラバウル、さらにそこからボートの旅だった。仕事を早めに終え、多少時間があったので、頼みこんでラバウルの史跡を案内してもらった。先日、百田尚樹著「永遠の0」を読んでから、舞台となったラバウルを訪ねるのを楽しみにしていた。太平洋戦争中、南太平洋における日本軍の拠点となった場所である。零戦と連合軍戦闘機との激しい空戦が繰り広げられ、搭乗員の墓場とも呼ばれたらしい。

ラバウルは大小複数の火山が囲むように湾を作っている。日本軍司令部は湾から突き出た半島の一番先、活火山のすぐそばだ。しかし、戦時中とはラバウルの街もまた変っている。1994年に火山が噴火し、ラバウルの街は廃墟と化した。人々は20キロほど南のココポという町に避難し、今ではラバウルの人、街、都市機能はすべてココポに移っている。飛行機でラバウル行きと言っても、実際に飛ぶのは、ココポだ。私が泊まったホテルもココポにあった。

ラバウルには未だに数多く戦争史跡が残されていた。空港への道には、さび付いた戦車が無造作に置き去りにされている。ココポからラバウルに向かう海岸沿いの道からは、崖にいくつも洞穴があった。日本軍が倉庫用に崖に掘った穴だ。洞穴は中が暗く、気味が悪かったが、別に沖縄や硫黄島の地下壕のように、手榴弾で自決したとか生々しい話はないと聞き、ちょっと安心した。


道の反対側には、日本軍が荷揚げに使ったクレーンが錆だらけになって残されていた。岸のすぐそばでもかなり水深があるので、船での荷運びには好条件だったとか。錆だらけのクレーンは、今では地元の若者たちの格好の釣り場となっていた。


海岸沿いの道から少し奥まったところには、日本軍が船を隠した洞窟があった。撤退するとき、貴重な船を隠して行ったらしい。少し奥まったところにあるのだが、陸に上げて、あそこまで移動させるのはさぞ大変だっただろうと思う。これも、人工的な洞穴だが、100メートルほどの深さの横穴に縦に5隻船が並べられている。ただし、中に電気はついていないので、光の届かない2隻目よりも奥に入っていく勇気は私にはなかった。


そして、零戦が飛んだラバウルの空。高台に登り、ラバウル湾を一望する。生憎風が強く、火山の噴煙と巻き上がる火山灰で写真では火山の姿が見えないが、左のほうに隠れている。いつも気の抜けない、命がけの戦闘機乗りも、時にはこの美しい景色に心を慰めることもあったのではないだろうか。


海軍司令部の地下壕も訪ねた。火山から近かったので、強い風で火山灰が巻き上がり、息をするのも苦しいほどだった。山本五十六がここから指令していたとされるが、中はとても狭く、2,3分いただけで息苦しく感じた。中には何も残されていなかった。それにしても狭すぎる気がしたが、残されているのは一部なのだろう。

通称、「ヤマモトバンカー」と呼ばれている海軍の地下壕。
 
地下司令部の壁は、どうやら最近ペンキで塗り変えられたらしかった。しかし、ところどころ、日本語が書かれたところだけ避けて塗られていて、古い壁が覗いていた。書かれていた日本語は戦時中のものではなく、ラバウルを訪問した慰霊団や遺族会が記念に書き残したものだった。歴史が価値のあるこの史跡を、なぜペンキで塗りなおす必要があるのだろう。

最後に行ったのは、ココポの戦争博物館。あちこちから集められた兵器が庭にずらりと並べられている。爆弾、ミサイル、機関砲、戦車。戦車は思った以上に小さく、拍子抜けした。しかしやはり最大の目玉は零戦の残骸だ。既に元の色さえわからない、骨組みだけの骸骨のような機体。翼を突き抜けるように咲いた花が、過去の戦争の悲劇と、時を経た現在の平和のコントラストを物悲しく際立たせていた。


日本に帰るたび、日本の小ささを感じるのだが、あの小さな列島からよくもまあ、こんな遠くまで出てきたものだと思う。果てしなく広い太平洋と東南アジアを本当に自分のものにできると信じていたのだろうか。このラバウルから指令を発していた山本五十六は、開戦に反対した数少ない軍人だったと言う。彼は自分が止められなかった悲劇の結末を予見していたのかもしれない。

途方もない作戦に使われ、ラバウルで、そして南太平洋の島々で散っていった兵士を思う。そして、若い日の思い出を胸に、ここを再び訪ねる慰霊団の人々の気持ちも。暗い時代であっても、彼らにとっては、まぎれなくそれは青春だったはずだ。仕事を引退した後、多くの戦友を失った苦い若き日の思い出の場所に、彼らは何を思ったのだろう。

太平洋戦争に関して、東南アジアで仕事をしている現代の世代として正直に言わせてもらうと、「何故こんな馬鹿なことをしたのか」という憤りがある。仕事をしていて、歴史の話がでるたびに、肩身の狭い思いをする。いくら被害者意識に立ったところで、アジア各国を蹂躙た加害者であることは否定できない事実だ。何十万という国民を無駄死にさせ、日本の傲慢さと幼稚さを露呈した、情けなくて恥ずべき歴史だと思う。

しかし、考えてみれば、戦後、高度経済成長を支え、日本を経済大国に導いたのは、戦争で命がけの体験をした世代だ。必死で生き延び、生きることの難しさ、大切さを知っている世代だからこそできた偉業だったのかもしれない。そして、戦後70年近くなり、今に生きる私たちは、経済的恩恵だけを受け継ぎ、彼らの糧となった必死に生きる大和魂を置き忘れてしまったような気がしてならない。

1 件のコメント:

  1. 始めまして。生ラバウルを見れたなんて羨ましい限りです。戦争を経験した世代が消えていき、戦争の記憶もだんだん薄れていくかと思うと何だかやるせないですね。

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