2013年10月29日火曜日

考察・30という歳

最近、30という歳について考える。もう30代になって2年近くになろうとしているのに。きっかけは婚活だった。

婚活を始めたと言っても身近に相手がいないのだから大したことができるわけはないのだが、インターネットでいろいろと参考になるような記事を色々読んでいる。デートでやってはいけないこと、婚活メールの書き方、男性の恋愛心理、男性が結婚相手に求める条件・・・いわゆる恋愛のハウツーものだ。今まで男性の目などさほど気にしていなかったのだが、ここにきてやっと男性が女性に求めるもの、というのを意識し始めた。普通の人なら20代で既にやっていることなのだろうが、我ながらかなり遅い。手遅れでなければいいのだが。

どの記事でも書かれているのが、男性が一番気にする条件は年齢だという。特に子供を持ちたいと考えている場合は、30前半までの女性を希望することが多い。たとえ、自分が40代、50代であっても。自分の年齢は棚に上げて失礼な、と思うが怒っても仕方ない。

お世辞かもしれないが、私はいつもかなり若く見られ、今でも30代と思う人は少ない。しかし、それでもデータ上はやはり30前半、という年齢でひとくくりにされてしまう。まずは大勢の候補者の中から条件検索でしぼってゆくネット婚活の場合はいたしかたない。実際に会うのとは、やはり違う。そして、20代の女性に求められるものと、30代に求められるものは、全然違うのだ。たとえ、それが1歳の差だったとしても。

孔子は、「三十にして立つ」と言ったが、これは、30で自分というものを確立したと言うことだろう。シュバイツアーも、30までは自分のために生き、30からは人のために生きようと区切りをつけた。偉人と自分を比べるのもおこがましいが、世間一般的に見ても、やはり30というのは区切りの歳なのだと思う。それまではあれこれと夢を追い、迷っていても、30となるとある程度自分というものを持ち、人生の方向性を固め、生活の基盤も確立していなければいけない。社会的にも20代のフリーターは許されるが、30代のフリーターはだめなのだ。

30になれば人間的に固まってくる。就職でも、それまでの経験や業績に焦点を当てたヘッドハンティング以外は、日本企業は30代以上の人間の採用には、俄然消極的だ。昔は年齢だけで判断するのは、浅はかだと腹を立てていたが、30を過ぎ仕事での責任も増えて、人に指示する立場になって、年齢で区切るのも一理あるように思えてきた。

社会に入って間もない20代の頃は、新しいこと、学ぶべきことがたくさんある。何も描かれていないキャンバスであり、水を吸っていないスポンジだ。そしていろいろな経験や知識を吸収しながら、自分なりの考えを養い、一人前の人間として成長していく。もちろん、精神的成長はある年齢で止まることはない。しかし、やはり30歳ともなると、ある程度経験を積み、自分に自信がつき、自分が固まってゆく。キャンバスにはある程度ものが描かれ、スポンジは水を吸ってしまっている。吸収力が弱まってくるのはいたしかたない。もちろん、それまで培ったものを元に、応用する能力はそれまでよりもでてくるのだが、人のいうことを聞く「素直さ」は、どうしても劣ってくる。

ある恋愛関係のネット記事で、パートナーに求める性格として、素直さが上位に挙がっていた。パートナーを探すとき、やはり相手には自分を受け入れて欲しいと思う。就職を結婚に例えることもあるが、新しく職員を採用する会社も、素直に教えに従う、素直さが欲しいと思う。それは当然のことだろう。自分の意見をもつのは大切だが、人のことを聞く素直さもなくしてはならない。この両立が難しいところだ。

30という歳を越えたときは大した感慨もなかった。20代が終わったという嘆きもなかったし、30になったからといって変ったこともなかった。しかし、考えてみれば、私も確実に変ってきている。仕事で経験を積み、はっきりものが言えるようになった。同時に、「新しいもの」が少なくなった。そして、既にある程度知っているものに対しては、こんなものだろう、という経験に裏打ちされた予測をたてられるようになった。しかし見ようによっては高をくくったような傲慢な態度と見れないこともない。

素直さ、それは心の若々しさ、ということかもしれない。どうしたらそれを保っていけるか。これからの課題になりそうだ。

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