2013年10月5日土曜日

乱紋(永井路子)



数年前、友人に勧められた本を今更ながら読んでみた、浅井三姉妹の三女、おごうの生涯を描いた永井路子の歴史小説。戦国の世の宿命を負い、数奇な運命をたどって引き裂かれた三姉妹は、何かと物語になることが多いが、この小説は、なかなか独自の解釈を呈してくれる。

何よりも特徴的なのは、この三姉妹の運命を、肉親と引き裂かれた悲劇の美人姉妹としてではなく、ねたみ、そねみ、最後まで競い合った女同士として描いていることだ。何しろ、この長編の小説を通じて、姉妹がお互いを優しくいたわりあうという場面が1つもない。姉妹の間にあるのは、というより、お茶々とお初にあるのは愛情ではなく女のどろどろとした競争心、虚栄心だ。女の意地悪な裏の心理がここまでご丁寧に描写してあるのは、さすが女流作家というところか。同じ女でもなければこんなに汚い女の心理を描ききれるものではない。

プライドが高く、いつも自分が一番、女王様でなくては気がすまない、長女の茶々(淀殿)。愛想が良く、計算高く、強いものにおもねて世を渡ってゆくしたたかな次女、初。姉たちのような美貌も才覚ももちあわせていない、ぼんやりとした、三女、江。かなり小説的脚色がはいっているとしても、それぞれが歴史の中で果たした役割について思えば、この性格の描き方は納得だ。一城の女主として権力をふるった淀君に、豊臣・徳川の間の政治的調停人となった初。調停人といっても、徳川のほうにしてみれば、豊臣を油断させ、騙す方便に過ぎないし、結果的に姉を破滅させることに一役買ったわけだから、「したたか」という印象はぬぐえない。それに比べ、二度結婚に破れ、徳川秀忠の正室になったおごうは、運命の数奇さでは上の2人を上まりながら、歴史的に特別自分で何かをしたという記録もなく、やはり歴史の中においてぼんやりとした存在だ。彼女の功績はといえば、やたらと子をもうけたことだけだろう。だからといって彼女の立場で何ができたか、と聞かれれば、それも困るが。

この小説の中では、茶々や初の心は直接描かれていても、おごうの心は一切描かれていない。台詞も表情も乏しいので、なにやら得体の知れない雰囲気である。単に鈍いのか、全てを諦めているのか、全てを受け止める度量をもっているのか。しかし、最終的に栄華を手に入れ、虚栄心とプライドに満ちた姉たちの上をいくのはそのおごうである。姉2人と違い、本人はそのために何の尽力をしていないにしても。

これはあくまで小説として脚色されているにしろ、このおごうを見ると、気が回らないというのも一種の才覚かもしれない、と思えてくる。気の回る人にはそれだけの気苦労があるだろうし、言葉の裏の意地悪な計算やねたみなどを深読みしすぎて自分の妄想の中で空回りしてしまうこともあるだろう。私自身も人の心を推し量るのが苦手な、いわゆる「空気が読めない」人間に入ると思うが、一方で、目に見える単純な世界で生きているので、それだけ幸せだとも言える。この小説に描かれている、本来ならばいたわってくれるはずの姉からの凄まじいねたみ、意地悪な計算は、最初から知らないでいるほうが幸せだし、まともにとりあったら自分も泥沼にはまるだけだ。

人間万事塞翁が馬、不幸は幸運の種になり、幸運は不幸の種になる。戦国時代はまさにそんな時代で、三姉妹に限らず、描かれている登場人物の運命は二転三転する。しかし、その中で一喜一憂せず、どっしりと構えている(ように見える)この小説のおごうはある意味すごい。「鈍い」という一般的短所は、ある意味で素晴らしい長所なのかもしれないと改めて思った。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿