2013年8月8日木曜日

1Q84(村上春樹)



「あんたの主張することは、どれをとってもまったく脈絡がとおってないように俺には思える。原因と結果のあいだに論理的な繋がりが見当たらない。それでもこうして話しているうちにだんだん、あんたの言い分をとりあえずそのまま受け入れてもいいような気がしてくる。それはどうしてだろう。」

これは、作品中、タマルが青豆に対して言う台詞だが、私のこの作品、いや村上春樹作品全般に対しての感想を代弁してくれているようだ。以前、「ダンス・ダンス・ダンス」の感想でも書いたことだが、村上春樹の作品は、独自の世界はあるが、何だかわからない抽象画のようで、私はどうも好きになれない。それでもこの話を読んだのは、前に書いた私の村上春樹の感想を読んだ家族から、「いや、それでも1Q84はいい、読んでみる価値がある。」と勧められたからだったが、結局私の村上春樹ワールドに対する見方は変ることはなかった。

村上春樹の作品は、確かに面白い。どんどんページをめくってしまう。独自の世界を築く、ということでは、この作者の右に出るものはいないだろう。他に書ける人がいない小説を書く、というのはそれだけですごいことだ。しかし、どうしても私は好きになれない。小説として論理に乏しく、まとまりが悪い。ファンタジー、幻想小説ということである程度は許されるにしろ、論理的に物事がつながっていない。だから最後まで読んでも、「だから何?」としか思えない。読んでいるほうとしては、ものすごく気持ちが悪く、消化不良な気分に陥る。

まず、回収されていない伏線が多すぎる。天吾の年上のガールフレンドの失踪は結局何だったのか。彼の母親が父親でない男と乳繰り合っているという幼いときの記憶が何度も繰り返されるのも関わらず、話が繋がってこない。物語後半で出てきた彼の幼いときの家族写真で、母親が安達クミと似ているのは何故か。安達クミは母親の生まれ変わりなのか、だとしたらその意味は。リトル・ピープルとは結局のところ何だったのか。その声を聞くことに一体何の意味があるのか。天吾の父親が肉体を離れ、NHKの集金人として隠れていた青豆やふかえりを脅かしたのはなぜか。わからないのは私の読解力が足りないだけだろうか。しかし、読者の想像や読解力に任せます、というにはあまりにも謎が多すぎて、作者として無責任に思う。

物語の中で、チェーホフの、「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない」という言葉に関しての議論が出てくる。物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだ。そして、拳銃は、結局発射されることはなく、登場人物たちは、「火を吹かないに越したことはない。今はもう二十世紀も終わりに近いんだ。チェーホフの生きていた時代とはなにもかも事情が違う。そのあいだに小説作法だってずいぶん変化した。」といって、物語の中で作者に代わりそれを正当化するのだが、それにしてもこの小説にはそうした「発射されない拳銃」が多すぎるように思う。大した意味ももたず、思わせぶりに登場しては消えてゆく登場人物たち。あゆみは結局、青豆に警告を与えるために死ぬためだけに登場した存在だったのだろうか。タマルの幼少時代の話、天吾の家族の過去、天吾の消えたガールフレンドなど、一体何だったのか。登場人物が軽く扱われている話は、どうしても好きになれない私だ。

アメリカの作家、トム・クランシーは、現実とフィクションの違いを聞かれ、フィクションは理にかなっていないといけない、と答えた。訳のわからない現実をそのまま文字にしたところで名作にはならない。描写することを選び、論理的に整理し、注意深く選んだ言葉で表現しなければ文学とは呼べない。しかし、この作者は、フィクションにもかかわらず、独自の世界を頭の中に作り出し、それをただ描く。各エピソードの間に充分な因果関係ももたせないまま。思わせぶりに話しを大きくし、読者を放り出す。ファンタジーでも、普通、それなりの秩序というものがあるのだが、この作者の、現実世界を舞台にしたファンタジーには秩序がない。論理がない。そして、夢や超常現象、なぜか何でもわかってしまうミステリアスな登場人物を登場させて幻想感を出し、つじつまをあわせようとする。それが私をいらいらさせる。

主人公の1人、天吾は自らの置かれた状況について思う。「不可解な要素がいくつかある。そして話のラインが錯綜している。どのラインとどのラインが繋がっているのか、それらの間にどのような因果関係があるのか、見きわめることができない。」まさにそれが村上春樹ワールドだ。その世界の主人公にわざわざそれを言わせるとは、作者も自分の世界を自覚しているのだろう。

世界的に人気のある村上春樹の本。確かにこの人の作品は他の誰にも描けないような独自の世界をもっている。表現力も、読んでいてさすがだと思う。しかし、世の村上春樹ファンは、この人のストーリーの筋道を理解することができるのだろうか。それとも、物語の論理はとりあえず置いておいて、作品の醸し出す雰囲気を楽しむのだろうか。いつもいらいらさせられて終わってしまうだけの私にはどうもわからない。
 
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