2013年8月5日月曜日

インドネシアの宗教とヒジャブについての考察



今週は、インドネシアのゴールデンウィークだ。今週後半にイスラム教の断食明けの休暇があるのに合わせ、多くの会社が1週まるごと休みにする。さらに休暇をとり、23週休むインドネシア人も多い。いつもの年なら何をしようか、あらかじめ予定を立てるところだが、今年はゆっくりまったり自宅で過ごすことにし、こうしてブログの記事を書いている。

今回の休日に限らず、インドネシアにいると、本当に宗教が生活に密接に関わっていることを感じる。日常生活において、宗教をそれほど意識することはない日本とは対照的だ。日本で、生活の中心に宗教を据えている人は少ないだろうし、日本では宗教を信仰しているというと、何か危ない人のように考えられることもある。初詣は神社、結婚式はキリスト教、お盆にはお寺にお墓参りに行く多くの日本人にとって、宗教は精神的なものよりも、行事によって親しむものだ。実際に信仰を聞かれれば、特別どの宗教も信仰してない、という無宗教の人が結構多いのではないだろうか。多くの日本人にとって、宗教は、決して、必ず属さなくてはいけないものではないし、それによって自分のアイデンティティが決まるわけではない。

しかし、こうした宗教に対する見方は世界的に見れば少数派かもしれない。世界の多くの国では、宗教は人々の生活の中心となっている。インドネシアは、世界最大のイスラム教国だが、決してイスラム教徒だけではない。バリではヒンズー教徒が多いし、キリスト教徒ももちろんいる。しかし、どの宗教でもよいが、国民ひとりひとり自分の属する宗教をきちんと決め、登録しなければいけないのだ。国民ひとりひとりが携帯する身分証明書KTPには、はっきりと宗教を書く欄がある。

以前、キャッシュカードをATMに置き忘れ、再発行の手続きのために、まずは警察に遺失物の書類の発行をお願いに行った。その書類がないと、銀行もカードを再発行してくれないと言うのだ。その際警察で、氏名、住所、カードを失くした場所、時間などのほか、「宗教は?」と聞かれた。何でそんなもの関係あるんだろう、と思いつつ、「無宗教です」と答えると、目を丸くされ、思いもかけない反応が返ってきた。え?宗教がないの、それってどういうこと、という反応が返って来、でも神様がいるのは知ってるよね、などと聞かれた。紛失届けを発行してもらうのにつまらない宗教問答になるのもつまらないので、「冗談です、冗談。仏教です。」と言ってなんとかその場は収まったが、その時の警官の安堵した顔といったら。こちらの人にとって、無宗教とは、無国籍と言われるのと同じくらい気持ち悪いものなのかもしれない。

宗教とはおおよそ関係のない生活を送っている私にとって、宗教というと、面倒くさいもの、というイメージがある。礼拝があったり、生活面での制約があったり。特にインドネシアに来て、イスラムの決まりごとの多さを目の当たりにすると、その大変さに、気の毒になってしまうほどだ。1日5回の礼拝に、女性の服装の制約、これだけでも私にとっては大変な負担と思えるのだが、何年もインドネシアにいて、これを可哀想と思うのは外部の人間の勝手な見方に過ぎないことがわかってきた。

イスラム教の女性は、男性の欲望を刺激しないよう、女性らしさを隠すため、ヒジャブというかぶりものを身に付け、肌の露出を避けることが求められる。イスラムの服装というと、中東の、真っ黒で、目だけしか出さないようなヒジャブを想像する人も多いと思うが、インドネシアの場合、かなり自由だ。ヒジャブも色とりどりで、ビーズや刺繍のついた優雅なものも多く、完全にファッション化されているし、イスラム教でも、特に都市部ではTシャツ、スカート、短パンの若い女性も多い。テレビでも、タレントや歌手は堂々とセクシーな格好をしている。それでも、ヒジャブを身につけている女性は多く、暑いのに全身布で覆っていてご苦労なことだ、と思ってしまう。しかし、義務として押し付けられているのではなく、自分の自由意思でヒジャブを身につけているという女性たちが意外にも多いのに気づいた。

今はヒジャブで全身完全装備のある知り合いに、彼女の大学時代の写真を見せてもらったことがあるのだが、驚いた。濃いメイクにセクシーな服装、今の彼女とは似ても似つかない装いだ。「大学時代はバンド組んでてね、ボーカルやってたんだ。結構きれいでしょ。」それなら一体なぜそんな自由な服装をやめ、ヒジャブを身につけるようになったのか。「女の子は初潮を迎えたらヒジャブを始める人が多いみたいだけど、うちは自由だった。でも、そろそろ付けたほうがいいと思って、数年前から始めたの。」

また、仕事で出会ったDさんは、私がこれまで会った中で一番厳しいイスラム教徒だったが、別に押し付けられたものではないという。「うちの両親は、あまりいいイスラム教徒じゃなかったの。母もヒジャブはかぶってなかったし、モスクへのお参りもちゃんとしてなかった。これじゃあだめだと思って、姉妹で相談して、ヒジャブかぶることにしたの。母にもちゃんとヒジャブ身につけるように言ったわ。」この話を聞き、彼女のお母さんに深く同情してしまった私だった。娘から宗教的制約を押し付けられるというのはどのようなものだろう。彼女は、コーランの教えを字義的に解釈する人で、男性と触れるのは一切だめなので、男性との握手も拒否(握手が日常の挨拶であるインドネシアではかなり珍しい)、一日に5回の礼拝は時間にかなり厳密で、たとえミーティングの最中だろうが礼拝に行く人だった。宗教というのは個人の自由だし、インドネシアのイスラムは割とおおらかで、自分に影響がなかったのであまり気にならなかったが、仕事の上でも色々他人からの配慮を求める彼女のこの宗教的厳格さには少々辟易した。

インドネシアでも、人によって宗教の制約を守るかどうかはまちまちである。上記のように、自分から進んでヒジャブをつけるようになった人もいれば、小さいときから着用を義務付けられた人ももちろん多い。日本に留学に行ったインドネシア人で、日本の小学校に通う娘にヒジャブの着用を義務付けていた人もいた。(日本の小学校では格好のいじめの対象になりそうで、私はその娘さんに同情してしまった。)

日本で育ち、アメリカで勉強した人間として、身につけるものは、自由でありたいと思う。イスラムを自らのアイデンティティーとし、自らヒジャブを身につけることを選んだ女性たちは、それはそれで格好いいと思う。しかし、逆はないのだろうか、とつい考えてしまう。ヒジャブを身につけることを義務付けられて育った女性たちは、それを重荷に感じることはないのだろうか。自由な服装をしておしゃれを楽しむ他の女性を見て、自分もヒジャブを脱ぎたいと思うことはないのだろうか。残念ながら、まだそうした女性には会ったことがない。

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