2013年2月3日日曜日

外国語カバー曲


仕事中、同僚の席から懐かしいメロディーが聞こえてきた。同僚が仕事中に聞いていたのが、もれ聞こえたのだ。Kiroroの名曲「未来へ」だった。しかし、歌っているのはKiroroではない。歌詞は中国語だった。

その同僚は、中国で働いていたことがあり、その時、中国で流行っていたのだという。彼女はこれがもともと日本の歌であることは知らなかった。私は彼女から中国語の「未来へ」のmp3をコピーしてもらい、インターネットで歌詞を検索しながら聞いてみた。

きれいなイントロと「ほら、足元を見てごらん」というサビが印象的なこの曲は、言うまでもなく母への思いを綴った歌詞が涙を誘う名曲である。しかし、中国語版は日本語の歌詞とはまったく関係ない、もう還らぬ日の恋を悔やむというものだった。なぜあの時意地を張ってしまったのか、と。

Kiroroに限らず、この国際化時代、けっこう日本の曲が海外でカバーされている。しかし歌詞はまったく別物ということが多い。作詞・作曲者さえ了解の上なら、別にそれでもかまわないと思う。元の歌詞のニュアンスそのままに訳すのは本当に難しいし、文化的な違いもある。翻訳の忠実さにこだわりすぎて、歌詞としての美しさを犠牲にしてしまったら、歌の魅力も商品価値も半減してしまうだろう。きっとそのせいだろう、そんなに多く翻訳された歌を知っているわけではないが、私が聞いた日本の歌の中国語版はたいてい歌詞がまったく違っていた。多分、日本語の歌詞なんて最初から見ずにメロディーだけを聴き、イメージにあった歌詞をのせているのだろうと思う。

2,3年前、アメリカ留学時代の同級生の台湾人の友達が結婚することになり、結婚式に出たことがある。2次会のカラオケ大会で、私以外にも招待されていた日本人が結婚式の定番、「乾杯」を歌った。もちろん、台湾人の新郎新婦に、日本語の歌の意味がわかるはずもない。すると、台湾人の出席者が、その歌中国語に訳されているよと言い、中国語版を歌った。日本人は内容は似たようなものだろうと思い込み、中国語版の乾杯を知っている人がいたことを喜んでいたが、これもまた、実は内容はまったく別物だった。日本語の「乾杯」は、結婚する友人の前途を祝福する歌だが、中国語版は過ぎし日を懐かしむ歌である。過ぎし日に乾杯、というところだ。日本人が心をこめて歌った新郎新婦への祝福への気持ちは、まったく伝わっていなかっただろう。

別にこれは日本語の曲の中国語カバーに限ったことではない。日本でカバーされ、ヒットした外国の曲は多くあるが、原文忠実の歌詞というのはほとんどない。第一、欧米の歌詞を日本語にしようとすると、かなりの字数オーバーになり、メロディーにのせるため、かなり内容を削ることになるのだ。

最近の例を知らないので恐縮だが、西城秀樹の「YMCA」のオリジナルを聞いた時は爆笑した。日本語版はかなり意味不明だが、オリジナルを聴いて納得した。この曲はキリスト教青年会(YMCA)のプロモーションなのだ。若者よ、迷ったらとりあえずYMCAに泊まれ、と。

原文に忠実に訳そうとした曲は、かえって売れていなかったりする。私が大好きな60年代の名曲、Green, Green Grass of Homeの森山洋子のカバー「思い出のグリーングラス」は、忠実に訳そうとした努力がうかがえるような歌詞だ。しかしそれでもオリジナルの涙が出るほどの懐かしさ、切なさは出し切れなかったし、日本語の歌詞としては不自然な出来になっていて、あまりヒットしなかったのもわかるような気がする。大体、「グリーングラス」と言われて、青々とした芝生を思い浮かべられる日本人はそう多くはないだろうから。

だから、テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」の中国語版を聴いたときは衝撃を受けた。日本語とほとんど変わらない内容の、きれいな歌詞だ。しかも中国語版を歌っているのもやはりテレサ・テンだ。しかし、同じテレサ・テンの歌った曲でも、小坂明子の切ない名曲「あなた」の中国語カバーの歌詞は単なる幸せなラブソングになっていて、がっかりした。この素晴らしい名曲がきれいに訳されていればどんなにいいかと思うが・・・。

別に歌詞は忠実に訳されていなければいけない、なんていうつもりはない。むしろ、文化の違う各国の人々が楽しめるよう、変わって当然だ。しかし、ふと思う。よくあるラブソングならともかく、Kiroroの「未来へ」などは、歌詞の意味は深く、きっと作詞・作曲者のほうにしたってかなり思い入れがあったと思うのだ。その曲を、普通のラブソングに変えられて、曲の生みの親として何も思わないのだろうか、と。

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